□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□    乙女高原ファンクラブ 公認  乙女高原メールマガジン 第159号 2006.3.25. 発行者:植原 彰 (乙女高原のある山梨市牧丘町在住) ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・   ▲▼ も く じ ▼▲ NEW! 0.【ニュースニュース】 NEW! 1.【活動報告】座談会 宮原孝男さんのお話 ■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■   0.【ニュースニュース】 ●@前号のメルマで乙女高原でシギを見たという話をしましたが,その件について, 福島のMさんから以下のようなメールをいただきました。 3月6日の観察記録のなかで、シギについてお話されていましたが、鳥好きの夫にき いてみたところアオシギの可能性が高いとのことです。冬鳥で、山の中の沢で水生昆 虫の幼虫などを食べているそうで、今頃の時期に日光の戦場ヶ原や菅平でみたことが あるそうです。ご参考までに。(以上,Mさんより) さっそく鳥の図鑑で調べてみましたが,ハンディ版の図鑑にはアオシギは載っていま せんでした。山日カラーブックス「山梨の野鳥」にもありませんでした。日本野鳥の 会の図鑑には載っていましたが,どうもピンときません。 でも,『愛媛の野鳥』というハンディ図鑑を見たら「これだ! 」とビンビンきてしま いました。この図鑑は,鳥好きな人たちが手間暇かけて作ったというのがすごーく伝 わってくる,とてもいい図鑑です。鳥の調べ物をするときには,いつも最初に使うの ですが,載っていたのが「珍しい鳥」というページだったので,気づかなかったので す。 ちみなに『愛媛の野鳥』にどう書いてあるかというと アオシギ タシギの仲間ではもっとも大きい。背や翼はオリーブ褐色に見える。飛翔はフワフワ とはばたく感じ。シギ類で山地に生息するのは,ヤマシギと本種ぐらい。冬季に渓流 の湿地に生息する変わり種。したがって,そのような環境で『シギ』に出合った時 は,アオシギである可能性が高い。ミミズや昆虫をよく食べる。単独で生活するた め,『孤独』を意味する種小名,英名がつけられている。中国大陸の内陸部で繁殖 し,日本や中国大陸南部で越冬する 昨年も今年も1羽でいたところといい,フワフワとはばたく感じといい,掲載されて いた写真といい,「まさにぼくが見たシギ!!」って思いました。 ●A3月19日(日)午後2時から,牧丘の総合会館で,乙女高原ファンクラブの2005年 度総会ならびに座談会が行われました。来年度の活動計画について若干修正されまし たが,どの議案も無事承認され,いよいよ2006年度のファンクラブの1年が始まりま す。すごいですよ,2006年度は。5月から10月まで毎月1回,案内人の皆さんが自主的 な勉強会を開催されます。もちろん案内人以外の方でも興味のある方でしたら,ご参 加ください。来年度の活動予定は,次号でお知らせします。 座談会での宮原さんのお話については「1」をお読みください。 --------------------------------------------------     1.【活動報告】   ●座談会 宮原孝男さんのお話●  昔の生活の話,乙女高原の話・・・興味深い話を1時間お聞きしました。いくつか の話題を箇条書きします。 ・私が住んでいる塩平は標高が1080メートル。3日前には氷点下8度まで気温が下 がった。私の入籍の日は2月ですが,実際に生まれたのは1月14日の獅子舞の日だそう だ。11人家族だった。 ・夕食の時には,大きな鉄の鍋でほうとうやおねりを作って食べた。機会があった ら,グリーンロッジでおねりを作って食べてみたらどうか。 ・塩平には当時,疎開してきた人もいて納戸を借りたり,離れを借りたりして40戸 ほどあったが,現在は18戸。でも,赤ちゃんから高校生まで子どもは18人。1軒 に1人の割合でいる。 ・昭和21年に西保小学校塩平分校に入学した。29年に義務教育が終わり,「炭焼 き長期大学」に入学し,畑をしたり、養蚕をしたり,植林をしたりしながら,未だに 卒業できず,現在に至っている。 ・塩平分校といっても校舎はなく,寺で勉強した。先生は増田先生。住み込みで教え てくれた。時計が壊れたら修理してくれたりして,器用な先生だった。 ・寺に入ると階段があって,床は分厚く,黒く,手入れがされていて,そこには大き ないろりがあって,大きな丸太が入っていた。放課後などはいろりを囲んでそろばん を習った。当時のそろばんは5つ玉だった。 ・小学校5年になると,本校(今の牧丘第三小学校)に通うことになった。3日か4 日通ったら,学校が火事になり,1週間くらい休校になった。校舎が焼けてしまった ので,西源寺というお寺に通うことになったが,3日か4日通ったら,混雑するし, 遠くまで通うのはえらいので,塩平に帰ってくることになった。でも,塩平でも場所 はなく,公民館の裏の神社の中で勉強することになった。1人の先生に5,6年18 人が教わった。 ・塩平の大人たちが寺を壊して学校を建ててくれた。地域の大人たちがスコップや モッコで,人力で敷地を作ってくれた。24年の11月16日が落成式だった。とに かくうれしかった。 ・当時,うれしかったことニュースのもう一つは,焼山の奥にスキー場ができるとい うこと。「山麓」の漢字と意味がわからなくて,「金峰三六(山麓)乙女高原スキー 場」と書いていた。 ・当時,春の遠足は焼山峠,秋には黒平峠とか八幡峠とかへ行った。当時は下駄を履 いて学校にいった。歯が減ってせんべいのようなげた。ぼろきれで鼻緒を作ってくれ た。それで,八幡峠の遠足に行ったもんだから,鼻緒が両方とも切れてしまって,げ たをかついで帰ってきた。足が痛かった。おにぎりも忘れられない。のりなんてつい てなかった。大きな梅干しが一個入っていた。まわりをがつがつ食べて,最後に梅干 しの味がしみている中心の部分を食べた。なんともいえなくおいしかった。 ・なぜ,おにぎりがよかったかというと,毎日学校に持って行く「ドカベン」だと, 麦がほとんどだったので,口に入れてもなかなかのどを通らなかった。でも,おにぎ りだと米が食べられた。 ・友達がはずかしそうに弁当を食べているので,そっとのぞいてみたら、下の方が麦 ばっかりで,上の方に薄く米が入っていた。そんな弁当を作るお母さんの技術に感心 した。 ・その友達が白い団子を持ってきて,食べていた。白い団子だから堂々と食べればい いのに,こそこそと食べている。団子が床に落としてしまったので,わかってしまっ た。ジャガイモをむいて,すりこぎでつぶして,握ったものだった。 ・春の遠足は,遠足を理由に山菜採りをした。レンゲツツジが盛りになると,ワラビ も盛り。焼山に着くと,弁当もそこそこに山菜をとった。ワラビ,これっぱ(ギボウ シ),うらじろ(オヤマボクチ),こごみ(クサソテツ)をとった。 ・ギボウシの中には,当時,どこの山に行っても,アツモリソウが生えていた。当時 はアツモリソウなんて名前も知らずに,金玉花(きんたまばな)と言っていた(花の 形が精巣に似ている)。おふくろさんから「仏さんにあげるだから,きんたまばなを 取ってこう」とか言われた。 ・いい株だったら,時には根っこごと持って帰ったこたともあった。今ならできない ことだが。2立てだと3年くらいで3本になった。 ・中学校になったら,スキー場がオープンして,長靴に竹スキーで毎週のようにすべ りに行った。峡東スキークラブでスキー大会をするときにはバスが3台も来て,夕 方,寒いのにバスが見えなくなるまで見送ったりした。部落長・町会長(今で言う区 長)を通じて民泊を受け入れるようにもなった。 ・当時のおかあさんたちの苦労は大変だった。水道はなく,川から水をくんできた。 お勝手の隅に水瓶があったが,「学校から帰ったら水瓶に水がいっぱいになるまで, 水をくんでおけ」とか言われた。当時はかなり馬を飼っていて,山から木を出したり 炭を出したりしていた。馬はどこででも用を足してしまうので,馬が来るまでに水を いっぱいにしておけと言われた。風呂は五右衛門風呂。それにも入れていた。水は尊 いものだったから,今のように湯をくみ出して洗うことはしなかった。中で洗った。 どこのうちでもお袋さんが最後に入るが,そのころには牛乳のようになっていた。 ・民泊したお客さんを送り出すと,おふくろさんたちはスキー大会を見に行った。エ プロンにはんてん,それに日本手ぬぐいでほおっかぶりをして,長靴を履いて行っ た。 ・そのころになると,スキー場にたくさんの人が来るようになったので,手塚小屋も 建て増しをした。皆さん,まるきんって知っていますか? そこに材料をおろして, そこから担ぎ上げた。当時,炭焼きをしていた人に頼んで,担ぎ上げてもらった。東 ワル沢が乙女に行く本ルートだった。いくら力があっても,半日かかった。 ・そのころ,代表世話人の古屋さんたちが丸太小屋を作った。丸太の隙間から風が入 るので,そこにサルオガセを取ってきて,埋めていた。いい小屋だなあと思った。 ・ゲレンデの草刈りを塩平の青年団でしないとうい話が持ち上がった。自分のおじさ んが,そんな話を持ってきた。1泊2日で草刈りを,3年くらいした。手塚小屋に泊 まった。そしたら,手塚さんから炭ガマを作ってくれないかと言われて,また1泊2 日くらいで作って帰った記憶がある。 ・何年かたつと,青年団の中でも上になったので,スキー大会があったらラーメンを 作って売ろうということになった。そのころになると林道が途中まで来ていた。そこ からガスボンベとか運んだ。ラーメンはとても売れた。ジュースもよく売れた。リフ トのないゲレンデなので,自力で登らなくてはならないので,のどが渇いたんでしょ うね。当時のジュースなんて,粉末を沼地からくんできた水に溶かしてかき混ぜただ けのものだったが。 ・炭焼きは7年やった。最後に炭焼きをやったのが乙女高原の入り口。炭焼きをして いると,ハイキングの人が通ることもあった。女性のハイカーが来たので「小屋に 寄って,お茶を飲んでいけし」と誘った。 ・どこの現場でも泊まれるような小屋を造った。炭焼きをしながら1週間くらいは泊 まった。炭窯の上にかけるのがハチゴヤ,そこの横に炭を入れたりするスミゴヤ,そ して,弁当を食べたり休んだりするイゴヤ。まわりの壁(炭焼き小屋ではカキネとい う)は,外はカヤだが,中はシラカバの皮をむいて,風が入らないようにした。屋根 はキハダの皮をむいてかけた。泊まると,天気がいいと星が見える。でも,雨が降る と,皮がふやけて,星は見えないし,実際に雨も漏らないようになった。 ・炭焼きから植林に替えた人が多かった。当時,架線作業に携わった。最初は水が 森。当時はクリの大木がすごくあった。それを枕木に削って,架線でおろした。それ から黒平峠。今度はスキー場まで林道が通ったので,スキー場の奥で伐った。40年 ころにここで木を切ったが,そのときの社長が三枝功さん。 ・そのころ,畑には大麦・小麦・もろこしを作っていた。5月ころ,麦の草取りをし ていたら,産業課の課長が来て,大弛(山小屋)の管理人をしてくれと頼んだ。結 局,引き受けることになった。当時はアコウの沢までしか林道が開いていなかった。 3時間から4時間かかって,小屋まで行った。二人で1ヶ月交代だった。夏は楽しい が,冬はたいへん。コメツガやシラビソに雪がたくさん降り積もっている様子を見 て,感激して、あわてて国師に登ったりした。 ・昭和44年10月16日,林道が開通した。田辺知事と長野県知事が握手をした。 ・72歳のおじさんに「真冬の国師に連れて行ってくれ」と頼まれ,家に泊まって, 柳平まで車で送ってもらって,7時に出発。大弛に着いたのが,夕方の5時。おじさ んの荷物まで担いで登ったので,大変だった。翌朝,国師でご来光を見た。大弛を9 時に出発して金峰山へ。金峰の小屋にラッセルしながら着いたのが5じころ。一晩泊 まって,翌日出発。稜線まで夏からすぐなのに,おじさんの荷物も持って,ラッセル して3時間もかかった。 ・当時は暇さえあれば,山ばかり歩いていた。というのも,お客さんに山の案内を聞 かれたから。自分の足でいろいろな山を経験した。単独で行っていた。単独だからこ そ,慎重だった。石橋をたたいて渡るどころか,たたいても簡単には渡らない。だか ら,事故も起こさないで済んだ。金峰山から雲取山まで縦走して帰ったら,家に親戚 の人が集まっていた。捜索願いが出されるところだった。 ・民宿を始めた。名前は風来坊。山菜やきのこを取ってきてお出しした。朝早く出 て,夜が明けると同時に山菜を採った。というのも,おかいこを飼った人は分かると 思うが,「桑の葉は朝露があるうちに取れ」と言われるが,山菜も朝露があるうちに とると新鮮だし,味もいいと思う。千本しめじ(シャカシメジ),マツタケ,など。 それをお客さんに出すのがやみつきになった。 ・民宿は終わりして,今に至る。 --------------------------------------------------   【乙女高原ファンクラブ事務局】 植原 彰(方) 〒404-0013 山梨市牧丘町窪平1110-3       電話とファックス 0553(35)3682  ◎寄付用の郵便振替口座    口座番号 0220−8−71093    加入者名 乙女高原ファンクラブ ●ご意見/ご感想/情報はこちらに・・・  xxxxx@kougen.otomefc.net (このメールに直接返信でもいいです) ●バックナンバーをご覧になりたかったら・・・・  http://www.otomekougen.npo-jp.net/mail_mag/ ●乙女高原ファンクラブのホームページは・・・・・  http://www.otomekougen.npo-jp.net/ ●「ウエちゃんの乙女高原自然観察記」は・・・  http://www.otomekougen.npo-jp.net/observ/observ_top.htm ※「乙女高原メールマガジン」は希望する方に無料で配信しています。まわりにご希 望の方がいらっしゃいましたら,アドレスとお名前を「返信」してくだされば,メー ル配信のリストに加えます。お互いに顔の見えるような関係の中でメール配信したい ので,あえて自動配信のメールマガジン用ホームページ等は利用しておりません。ウ イルスが怖いので,最低週に1回はウイルスソフトの更新をしています。   以上。