乙女ゲレンデの歴史

写真をクリックすると拡大表示されます。
ブラウザの「戻る」で戻ってこれます。

これは1952年の山梨日々新聞の記事です。乙女高原スキー場が開設されたのは,1951年(昭和26年)の1月20日だそうですから,今から50年以上も前の話です。

その頃,県内に適当な練習場所がなかったので,山梨のスキー選手たちはもっぱら長野県の霧が峰のスキー場まで行って,練習していたそうです。
往復に時間とお金がかかるし,「他人(他県)の場所」です。県内に自分たちのホーム・ゲレンデがほしいというのが悲願でした。
そこで,県内のいろいろな場所を歩いて,スキー場適地を探していました。1950年には,柳平,焼山,乙女(まだその頃は「乙女高原」とは呼ばれて いませんでした)を歩いてみて,「ここにスキー場を開設するのがベストである」と,白羽の矢を立てたのだそうです。

乙女高原は,「山梨で第一号の『競技大会が開催できる』スキー場」としてオープンしたのです。 当時は,付近一帯をスキー場にしてしまおうという大きな構想があり,乙女は「金峰山麓スキー場・乙女ゲレンデ」と呼ばれていたそうです。

乙女高原は標高1700メートル。初雪は11月初旬。雪は4月中旬まで残ることもあります。 とはいえ,豪雪地帯ではありませんから,2メートルも3メートルも雪が積もるわけではありません。 しかも,この草原は「高茎草原」。背の高い草が多いので,そのままにしておくと,雪が降っても,枯れ草が雪の上に出て,スキーの邪魔になってしまいます。

 そこで,スキー場オープンと同時に,初冬つまりスキー・シーズンの直前に,草刈りが行われるようになりました。 その草刈りが綿々と続いてきたので,乙女高原は草原の姿を保ってきたというわけです。乙女の草原はスキー場が守ってきたのです。

戻る 次へ